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Interview with Nerhol
決して人には伝わらない人間の極深部、その一端を表層へ引きずり出す



Official Site: http://nerhol.com/
Interview by arata sasaki

2007年に IDEA を練る田中義久と IDEA を掘る(彫る)飯田竜太で結成されたアートユニット『Nerhol』。

グラフィックデザインを基軸に活動していた田中義久と、現代美術を基軸に活動してきた飯田竜太が、お互いの分野で得たディシプリンを組み込み、新たな基準を提示することを主として活動を重ねて来た。
limart にて開催されていた彼ら自身2回目となる個展『Misunderstanding Focus』は、意識の焦点を再考させる興味深い展示であった。今回のインタビューでは、今回の『Misunderstanding Focus』展を中心に、カームアンドパンクギャラリーにて開催された『SOURCE』展から4年という年月の過程や自身の理念、現状を取り巻くアーキテクチャ、世代の問題、未来のことまで幅広く話を窺った。





- 先日までlimartで開催されていた個展『Misunderstanding Focus』は、前回のカームアンドパンクギャラリーにて開催された『SOURCE』展から4年が経過したNerholとしては2回目となる展示です。何故このタイミングでの発表となったのでしょうか?

Yoshihisa Tanaka : 初回の展示は、”見たいモノを作り上げる”というその一点で、 作品を作り上げることにフォーカスをしていたので、ユニットを組織したり、個展を開催したりというった行為は作品から派生していきました。Nerholという名前も個展に併せて、命名したようなものですしね。

Ryuta Iida : 第1回目の展示で、提示した内容は、この4年の中で確固たる言語を含んだ事で、Nerholにとって様々な意味での非常に重要な「SOURCE」になっています。 新たな作品を作ることは、それらをさらに昇華されるものである必要があった為、この期間が必要だったと思います。







- ユニットの化学変化のパターンは、多種多様で、中でも互いの粘度が柔らかい状態だと上手く行くように感じますが、 実際、初回の展示後はどのような反応・発見がありましたか?

Yoshihisa Tanaka :
Nerholの場合は、或る種の自己満足からスタートしているので、鑑賞者がどのように捉えるかまでは考えきれていなかった。”見たいモノを作り上げる”がきっかけでしたからね。しかし、それでも学びは多くあったのだと考えています。
一つ目は領域を横断することへの鑑賞者の反応です。僕はグラフィックデザインという分野、飯田が現代アートという分野になる訳ですが、それぞれの領域の鑑賞者がそれぞれの視点で個展を捉える事になります。当然、領域を跨がることによって様々な摩擦が生じることになり、果たしてNerholの作品とはどのような着地点になるのかという存在自体への疑問符が表出して来る。僕らとしては、このような断絶の深さに驚嘆させられましたね。前述した通り”見たいモノを作り上げる”というきっかけからスタートはしているのですが、形式的にカテゴライズされた現代では、何を創っていくかという明確なヴィジョンを伝えていかないと、カテゴリーに別けられた人間の目を越境させる事が難しいだろうと考えています。
二つ目は、カテゴライズについての見解です。カテゴリー分けは、先人によって過去に設計されたもので、当然、現代に産出され続けているカテゴリーは当て嵌らなかったり、オルタナティブを提案しなければいけないカテゴリーも存在するでしょう。しかし、大事な要点は、カテゴリーに拘るのではなく、職能であるからこそ、それぞれの歴史というコンテクストが存在する訳で、その職能で培われて来た知識・経験を踏襲しつつ新たなものを生み出す事だと憶っています。

Ryuta Iida : 様々な意味でコンセンサスを取れるようになったし、相互にそうしようとしていると思います。



- それぞれのコンテクストを踏まえた上での、新たな表現方法という事ですよね?

Yoshihisa Tanaka : 自由な表現方法とは、その表現に至るまで各々の領域でやるべきことを学んだ上での事だと憶います。
つまり、彫刻、絵画、グラフィックデザインそれぞれに歴史、コンテクストが包含されていて、そのディシプリンを理解した上での自由。作品を発表するという事は、打ち出したい問いかけが存在する訳ですから、それぞれの領域の背景を知っている人間に対して発信する事ことでもあります。
初見の人、または、そもそも特に感情を抱いていない人には、自由に感じてもらえれば良いと憶うので。 問題なのは、その辺を踏まえていかないと自由というカテゴリーの中に収まっているだけの自由ではない作品になってしまうという事です。

Ryuta Iida : 田中が言う事は、方式という装備された知識技術とそれを土台として出た即興的な反応の関係性だと思います。 自己の分野でかなり追求された状況まで掘り下げ、新たな方式を作る。そこから産まれる新たな作法が自由な表現として確立する。 それは非常に強固な方式を持つ事でしか成り立たない。






- 4年という歳月を経てコンテクストを研究した結果、今回の個展タイトル『Misunderstanding Focus』に着地された訳ですが、この狙いは何でしょうか?

Yoshihisa Tanaka :
様々な状況下を踏まえて、phase 1としてNerholが提案するとしたら、テーマとして解り易いポートレートが良いと判断しました。逆説的に肖像画であればこのような手法というテーマの一つに過ぎなくて、伝播の方法論の簡易性を選択したとも言えます。

Ryuta Iida : 色々な意味での反発であったと思います。自分の中には結局わかってくれないという悲観的要素が多くあり、その部分を出す事で自己を保つところがあります。個人の制作でもそれはあって、その部分を共感できるような作品になればと思いました。手法が前面に出る事で、強度を保つ事もひとつの醜態と考えるようになっています。



- 多様な人種で構成された30人を集めて、撮影を行いましたが、何故あのような手法を用いたか教えて下さい。

Yoshihisa Tanaka : 被写体に対してはリラックスしてもらい、1秒弱のスピードで3分間連射して1人に対して合計200枚撮影しておきました。 人間は3分間静止することは出来ないので、少しずつ無意識か意識か分からないレヴェルで姿勢が崩れていくんですね。 これらの時系列によって撮影された写真を重ねて、上からカッティング(彫る)していくと少しづつずれて、癖などの表情が表出されるというシステムです。 多様な人種で構成したのは、各々の人間の内在的な側面を表出させる自画像なので、もしかしたら、被写体の生まれた地域性、歴史的背景などの差も出て来るのではないかと想定したからです。

Ryuta Iida : 日本人だけのモデルがランウェイを歩く状況をあまり採らない世界と同じような考え方だと思います。可能性の幅ですね。 特に【人】は外形で情報の80%位を語れるくらい強いものだと思います。その部分をどれだけ均一に表現するかというところにも、意図が含まれています。






- 学術と藝術の役割が問われている時代に於いて、学者とコラボレーションして社会的な意義を探求するのも面白そうですね。 このような社会的な意義についてどのような見解をお持ちですか?

Yoshihisa Tanaka :
社会のステップに関わることは僕らとしても興味深いことです。コラボレーションのきっかけ作りは、現代の芸術家にとっては必須だと考えています。例えば、今回では肖像画から写真への流れの定義、自画像と呼ばれる意識への変革ですが、表層的なものに対しての確証は一切存在しないのではないかという事が提示出来た展示だったと憶います。
一方、或る種の病気で人の認知、つまり他人の顔を認知出来ない病気があるわけです。鼻、目、口を理解が出来ても、顔というものは認識出来ないので、自画像という認識は出来ないことになります。つまり、今回の作品で顔がぶれていき、何処から何処までが顔なのか、もしくは表層的に表出している顔自体の定義が疑わしいということは、科学的な見解が存在しうる余地があるのではないでしょうか。

Ryuta Iida : 頭が良い人は、その理由を言葉や態度でしっかり判断してくれる。それは良い面でも悪い面でもです。僕は作業から思考が進むタイプなので、そういった人たちがより身近に回りにいてくれると、心強い。また、頭が良い人がビジュアルに関われなかったのは時代を見ても近年だけで、昔から賢い人がみんな率先していたと思います。作業チームが、もう作業兼思考チームにならなきゃならないので、もっとその部分を装備しなければと思います。ネットの広大さでみんな頭が良くなってるのでなおさらっ!


- 今回の展示を拝見して、言語による表現は全く存在していなかった訳ですが、この辺の表現方法についてどのように捉えていますか?

Yoshihisa Tanaka :
状況に依るのですが、今回は展示会場という場がメインでしたので、 カタログを販売していても視覚伝達論で考える部分において、必要ないと判断しました。 ただ今後、展示物が無い状態でカタログが販売されていく際には、それ相応の言語は必要になるとは憶うので、 今後は言語を適材適所で提出していくとは憶います。

Ryuta Iida : 展示は「見る」行為と考えました。読ませる展示はちょっと違うと思っています。 視覚的要素が伝達される事で思考が産まれるところがこの作品の強度です。作品の題名の通りの状況が味わえればそれで成功だと思っています。 文字は、その状況を味わえない場合をつなぐものです。言葉ありきで解釈されるまた、解釈したような感覚は非常に危ういと考えています。 その部分は自分の作品のコンセプトに近いです。





- 今後言語を使用する場合、大多数に向けての翻訳として言語になりますか?それは取り込むというマーケティング的な発想になりますか?

Yoshihisa Tanaka :
Nerholのシステムは集約であり、ジンテーゼを掲げていきたいので、取り込む行為に対しては前向きです。只、取り込み方に対して、既存の受動的なシステムを使用する必要ないと憶うので、表現媒体を選択しながら自らが求めているレイヤーにアプローチしたいと考えています。翻訳としては、まずは英語と日本語ですけどね。

Ryuta Iida : まさに翻訳としての言語ですね。文字は本当にバランスが問題だと思うので。自己イメージとリアルなイメージの境目。 そこをうまく繋げて、読んだ人の思考の中にイメージを浮かばせる。文学が高尚な芸術になるわけです。


- お二人の役割を聞かせてもらえますか?

Yoshihisa Tanaka + Ryuta Iida : ディスカッションからスタートしますね。お互いの領域グラフィックデザインと現代アートのシステムで起っている問題提起をそれぞれシェアしていくと、必然として共通項が浮かび上がって来るんです。資本主義経済がある以上、現代アートもグラフィックデザインも資本主義の経済を意識しないと生き残っていけないという事実があります。
グラフィックデザインで言及すれば、広告がメインの収入源ですから、基本的には企業のニーズに応える事が責務。一方、現代アートでは、作品を購入してもらう事がメインの収入源ですから、コレクターやパトロンが存在しないと前進しません。
只、本来その二つの領域で共通するのは、文化的価値の問題定義や、付随していくものだと考えているので、部分的に重なるものを炙り出して積み上げて行くんです。ある程度その積み重ねが溜まってくると、確認という意味も込めて実験的な作品作りがスタートします。Nerholでは、一応、僕が練る、飯田が彫るという役割としていますが、実際、お互いに練っている訳だし、彫るに関しても僕がラインの選定をすることもあるので明確でなかったりします。
僕らは共通項は当然存在する訳ですが、お互い求めていることが異なる部分もある訳で、それを可としています。ゴムのようにお互い逆方向に引っ張り合って、取り込むようなイメージで形造っていきますね。





- 前回の展示に比べて表現方法や狙いの巧みさは当然ながら向上していると感じますが、現在でもNerholを突き動かす根源は不変のように思います。根源的なテーマを添え続けるそのモチベーションとは?

Yoshihisa Tanaka +Ryuta Iida :
現状に対する危惧ですね。職種としては明らかに破綻していると感じますし、実際若い人の中にはアクティビティを持って提案していますよね。 私達が生きていく上で、自らの存在価値を考え、孤独を感じ、その壁を乗り越え前進した時、 俯瞰して自身に驚嘆するという事が起りますが、その過程こそが私達を突き動かすモチベーションだと憶います。


- 個を考察するという事は、同時にアイデンティティを社会構造という枠組みで照合する事が必要な訳じゃないですか。構造主義の思考だと現象には潜在的に眠る個の欲求が、社会の欲求でも良いのですが、存在する訳で、個と社会は背中合わせの鏡みたいなものです。つまり、Nerholには相反もしくは類する2つの視点が必然的に備わっている事になりますよね。

Yoshihisa Tanaka :
或る種の隣人に対しては、不確定要素が多過ぎると憶っていて、 個と向き合う事は、掘り下げていけば、結果全体に繋がっている部分があると考えていますね。

Ryuta Iida : 個は全体を構成する最小単位でしかないですね。その個が同一な見解を持つわけがないと考えています。同じ見解でなく、あくまで同じような見解。方向性という言葉は、まさに方向性で微妙にズレがある。スタートは多少のずれでも行き着くと大きくずれる。幕末の尊王攘夷とかの思考をよく考えます。社会構造が、個の欲求を解消できない事はずっと続いてる。それは人間がもつ生物的問題かもしれません。「~できない=欲求不満」 わかってもらえないから、わかってもらえそうなことをする。みんなそこに差はないと思います。優劣つけれないし、みんな根本の作用は同じような。だから社会を構成できるともとれる?のかな。





- アーティストの大事な役割の一つに個人と社会の関係性の修復、或る種の抑圧への抵抗ないし提議が挙げられると憶います。イデオロギーやアーキテクチャに対する、再編集・再構築を意識的に促すクリエーターが必要なのだろうと考えます。

Yoshihisa Tanaka :
そのような観点では、アーティスト、デザイナーを選択したことは理に叶っています。経済、社会のアーキテクチャを俯瞰して考察するポジションなので、より懐疑的になりますね。

Ryuta Iida : 再編しても根本が同じなのでくり返されるでしょう。もっと大きな変化が必要だと考えます。
震災で非力さを感じなかったアーティストは非常に残念だと思います。東北で感じた時間的なこの揺らぎをしっかり受け止める必要がある。 社会全体の総意という言葉はあくまで統計学的なまやかしなので「個人が考える」を教養とするなら、その方向性を提示する事も一つの方法だと思います。


- Nerholの最終着地点はどのような場でしょうか?

Yoshihisa Tanaka :
文化的価値を向上させる為の脱構築の繰り返しではないでしょうか。
日本のグラフィックデザインや広告は、私が感じる限り文化的価値という側面から離れていっているように憶います。批評が形成されにくいことにも繋がっていますが、社会での存在意義があり、文化形成の一部にならない限り行政も動かないし、歴史にも残っていきません。
また、アートは元々それを色濃く持ち合わせているにも関わらず、日本での立ち位置はまったく違いますよね。もっと大人から子供まで単純に楽しめるものなのではないでしょうか。

Ryuta Iida : レディー・ガガと一緒に仕事がしてみたいです(笑)。あとプーチン大統領とかとも。世界自然遺産とも仕事したいです。





- 世代間についてお聞きしたいです。 同年代ではその空気感は肌で感じていて、敢えて性急に共有をする必要がない場合が多いですが、10年以上離れている世代の活動、行為を見てどのように感じますか?

Yoshihisa Tanaka :
事実、10年以上、上の人たちの行為が目の前に横たわっていますよね。個人的には、部分的に再構成したいというのではなく、アーキテクチャごと構築したいと考えてしまいます。勿論、経験値で磨きあげられたラインやフォルムなどに対する素晴らしさ、学びは非常に多くあるのですが、アーキテクチャに対しては蜃気楼みたいなものをあてがわれているような感覚です。私は、自身が生まれ育ってきた世界が最上のものだと憶っていませんし、それぞれ背景があった上で、そこでしか追求できないものがある訳で、最低限全うしなければいけない仕事だと憶っています。

Ryuta Iida : 今の40歳付近の方々は色んな意味で最強だと思います。優しい人多いし。この10年で今の最強な人たちが作ってくれるインフラを想像すると、なんかバブル的な感じなのかなぁとか思ってしまう。そういう生き方も憧れるし、うらやましいと思います。その部分にいった事が無いのでわかりません。だけど、10年下の表現に実直に対等になれるのが、僕らの世代だと思います。今までは違う事が差異でしたが、これからは横一線で闘える社会かなとか思ってます。それを食い物にしようと上から目線で扱う人々は軽蔑のまなざしです。「一緒にやりましょう」とか「どんな動きなのか見てみたい」とかって既に上からだと最近思っています。共闘することが最善のリスペクトだと思います。常に学びの姿勢で、立場の逆転を恐れないことが大切かと考えます。


- いちアーティストが、或はデザイナーがコミニティとしてプラットフォームを創っていく未来が近くにあると思いますが、自らのプラットフォームを築いていくという願望はありますか?

Ryuta Iida :
僕は個人的に、その分野が凄い苦手です。同世代でやっている人がいます。その応援で十分です。既存のプラットホームが破綻しているとは思いません。むしろ進んでいると思います。その分野の人にがっちり力を発揮してもらって、それを使わせて戴きたいです。





- 広告の世界での経験が、Nerholにとっては大きな影響を齎していますか?

Yoshihisa Tanaka :
ある程度大きいと考えていて、飯田にしても見解を求める場合もありますね。ミニマムに言及すれば、飯田個人の作品もグラフィカルな捉え方が可能な訳で、だからこそ周辺にはデザイン周りの人間が存在しています。飯田で言えば、何故、現代アートの文脈以外の人間が社会的にヒットするかという疑問に対し、本質的な意味で解読する必要性があるし、私からすれば、現代アーティストで視覚伝達を上手く取り込んでいる人達を解読する必要があります。

Ryuta Iida : 大きいですね。初めて出した公募はグラフィックの分野でした。しかし、僕には広告の経験なんて無いので、あくまで表層的なイメージとしてしか捉えてません。


- ウェブの浸透によってグラフィックの効果は増大したと考えています。 Nerholでは、アーティストとしてウェブをどのように捉えていますか?

Yoshihisa Tanaka :
ウェブはウェブでアートとして完成させる必要があると考えていて、二次元的な表現への挑戦だと捉えています。人間の目は物質を物質で捉える力があります。情報として陰を落とす。側面を見せる。といった平面の中での立体的なイメージは幾らでも制作可能ですが、それは目前で見た物質の立体感とは明らかに違う訳で、それを無理に足して立体的にする行為より、ウェブ上でしか表現できないことを考えたい。
nerholのウェブサイトでは、平面で成立する方法を踏まえた上で、その辺を上手く利用するということをしています。また、ウェブでしか出来ない表現があるのと同時に、展覧会も大変重要だと考えています。例えば教会を挙げると、空間に絵画、彫刻、光、音など全てが存在していて、そこに人が集まり、参加して帰っていく。そもそもカテゴリーは存在してなくて、総合的に存在していたものが派生していく中で細分化されていったわけですが、展覧会は、このように人が集まって作品を見て帰って行くという流れを構成し提案することに特化していると考えます。

Ryuta Iida : もう作品としか思えません。定着の方法は様々だし、情報によって表層はいくらでも変化できる。可能性が広がります。


- 最後の今後の予定など教えて下さい。

Ryuta Iida :
今年は作品を作る事と発表する事を交互にしっかり行いたいですね。作らないと僕らのやっている事はカタチにならないので。 海外での展示も視野に、しっかり動いていきたいと思います。


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Nerhol


2008年、SOURCE(CALM&PUNK GALLERY TOKYO)、Light in the Darkness(parco gallery)、2009 年、Nerhol(Takuro Someya Contemporary Art)、EDTION(TOMORROW LAND)、2011年Wabi Savvy(A Satellite Exhibition of Gateway Japan Curated by Torrance Art Museum)等での展示、COMMISSONとして手塚治虫作品とのコラボレーション、BOSE、JVC(victor) の NEW MOTION C.I 等に作品を提供。作品集に、SOURCE/Nerhol がある。

www.nerhol.com
www.facebook.com/Nerhol


飯田竜太

1981年静岡県出身。日本大学芸術学部美術学科彫刻コース卒業。「第22 回グラフィック一坪展」グランプリ受賞、 北野財団教育復興彫刻奨学生受賞、第12 回岡本太郎現代芸術賞入選。2009 年TSCA kashiwa にて個展「ewiges equipment- 永遠 なる同等物-」、第一回所沢ビエンナーレ美術展「引込線」、2010年手感的妙 PART1(PROJECT FULFILL ART SPACE)、2011年 ACAC 国際芸術センター青森「再考現学展」等がある。



田中義久

1980年静岡県生まれ。2004年武蔵野美術大学卒業。主な仕事に、Yohji Yamamoto のV.I、MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN のアートディレクション、ホンマタカシ写真集「その森の子供」、東京都写真美術館をはじめ、コマーシャルギャラリー等の exhibition V.Iなどがある。2010 red dot award、PromaxBDA 2011 GOLD&SILVER、2009 TDCPrize Nominee work、他入選多数



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