
photo by Marina Aurora
2011年になりましたね。
遅いご挨拶となってしまいましたが、本年も決して奢る事なく、1歩1歩、並走してくれる仲間と共にHITSFAMILYは進んで行くので、今年もどうぞ宜しくお願いします。
さて、一昨年くらいから少しずつ料理をする機会が増えて、何だか料理の奥深さに心底感服し、料理やその背景に舌鼓を打っているのですが、探求すればする程、食には様々な文脈が絡み合い、私達に素晴らしい創造性を与えているように思えます。
食に関しては、未だ、勉学中の身ではありますが、『食』がどのようにクリエイティビティと親和性を持ちうるのか、その可能性を今日は探求してみたいと思います。
『食』の媒介場『キッチン』とデザイナー
食をミニマムにシンボライズし、キッチンをコミニケーションの場へ
『食』は私達が生活を営む上で、電気・ガス等の都市インフラと同様に、否、それ以上の体内インフラを形成・整備する根幹を成すものです。
『食』が私達へコネクトする時、『ダイニング』や『キッチン』という場が媒介場としてその役目を担ってきました。
『ダイニング』や『キッチン』は人類の歴史上、多くの感情の許容の場であり、人の生活の現場を投影してきたスクリーンとも言えるかもしれません。
現在、この『食』を虚心坦懐に眺めると、各々の領域を包括して人類の物語が凝縮していような気がするのです。
ここには、クリエーターにとって、多くの学ぶべき創造性のヒントが隠されているのではないでしょうか。
さて、『食』を掘り下げる時、過去その多くは食卓がテーマされる事が多かったように思いますが、HITSPAPERの視点では、メタ的な位置にある『キッチン』について読み解いてみたいと思います。
『キッチン』は、現代に於いて、その機能・役割は多岐に渡ります。
色彩鮮やかな食物や食器が並ぶ視覚の世界であり、調理の音がハーモニーを奏でる聴覚の世界であり、微妙な隠し味を探し当てる冒険を試みる嗅覚の世 界であり、身体性を伴う労働として振動を手に感じる触覚の世界であり、勿論 これらの完成品=成果物を堪能する味覚の世界でもあります。
また、オブラートに包まれてこそいますが、生死という大きなテーマ(社会にセットされた生死の物語が紡ぎ出されています)が、内包された哲学の世界でもあります。
そして、皆の胃袋に栄養素を届ける心臓部であり、世界中の多種多様な文脈の素材が集まる空港のような玄関であり、また、それらの貯蔵庫であり、人々のコミニケーションに於ける接点でもあります。
親子では教育の場でもありますね。
躾に始まり、レシピによって定められた素材から、調理し、完成形を示す制作のプロセスを伝授します。
そのレシピを破る事で、オリジナリティの制作といったアイデンティティの確立といった事まで起こるかもしれません。
食卓に対面式に着席すると照れてしまう私にとっても、『キッチン』は料理に気をとられている母親に、間接的に悩みを相談できる生の現場でした。
このような生の現場『キッチン』の持つ役割は、現代になって明確に認識されてきていると同時に、あらゆる可能性を秘めています。
そして、レストランの外観や内観、そして料理の完成品と同様に、デザイナーにとっても十分に腕を揮う機会があると思います。
そもそもデザイナーと料理人は、親和性が高い職業ではないでしょうか。
例えば、料理の素材とデザインのリソースの選択眼や、レシピ法、完成系へのアプローチ方法、そして盛りつけの美など通じる事が多いのです。
では、『キッチン』に於いてデザイナーはどのような役割を演じる事が出来るでしょうか。
『キッチン』という場は、多くの情報、物資が混在し、しかもその入れ替わりのサイクルが速い場所です。
こうした場でデザイナーは、この多岐に渡る情報を論理的に整理し、それぞれの用途に応じて明確なアイコンとしてシンボライズする必要があります。
何故なら、『キッチン』はコミニケーション・ツールとなる媒介器具が所狭しと並んでいるからです。
『キッチン』をデザインする事、器具、調理素材をキュレーションする事は、人と料理のコミニケーションをデザインするだけでなく、前述した親子関係や恋人関係といった人間同士のコミケーションを設計する事でもあると思います。
こんな魅惑的な場を私達はおおいに見落として来ていたのではないでしょうか。
『食』と『芸術』の蜜月

料理の三角形で食文化の体系化を図ったクロード・レヴィ=ストロース
アーティストにとって『食』とはどのような領域でしょうか。
私が説明するまでもなく、『食』は現代社会の問題を提言するテーゼとして、多くの先人達が言及しており、申し分のないモチーフに成りうると謂えるでしょう。
例えば、ニーチェやハリー・S・トルーマンは、料理、キッチンをこのような比喩として用いています。
"Bad cooks - and the utter lack of reason in the kitchen - have delayed human development longest and impaired it most." Friedrich Nietzsche
「キッチンの中で絶対的な欠落 おいしくない料理は、人間性の成長を長期に渡り遅らせ、最上級の障害となります。」 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
"If you can't stand the heat, get out of the kitchen." Harry S. Truman
「熱さに耐えられないなら、台所から出ていきなさい。」 ハリー・S・トルーマン
(重圧や困難に耐えられないのならば身を引くがよい)
偉大な社会人類学者クロード・レヴィ=ストロースも、料理の三角形や食人というテーマを介して、人類にとって非常に重要な『食』を通じたテーゼを発していますが、現在でも存在する食のタブーには、宗教や倫理など、人種を越えた人類の大きな問題として、また、社会に組み込まれた自然との非対称性を顕著に現しています。
クロード・レヴィ=ストロースの言葉を借りてみましょう。
「私のための歴史」の主観性が「われわれのための歴史」の客観性にその場所を譲りうるものであるとしても、その私をわれわれに転換しうるためには、そのわれわれは私の自乗でしかあり得ず、それ自体が他のわれわれに対しては完全に閉ざされている。
こうして、自我と他者の解き難い対立を克服したという幻想をうるために、その代償として、形而上学上の「他者」の役割を歴史意識によってパプア人に押しつけることが行なわれる。
パプア人を哲学的食欲を満たすためだけの手段の立場に落すことによって、歴史的理性は一種の知的食人を実行しているのである。
民族誌を研究する者にとってこの食人は身の毛のよだつ思いのするものである。
それは、もう一つの食人をはるかに上まわる。
~クロード・レヴィ=ストロース 「野生の思考」~
歴史を紐解くと、食にまつわる多くは、その文化、宗教、国民性に大きく影響しています。
『食』の根幹を成す提言は、社会へのオルタナティブな訴えであり、食にまつわるエトセトラから多くの芸術が産まれても良い筈なのだと思います。
宗教観、国民性に問わず、隣人ですら多種多様な『食』への関わりがある筈なのですから。
『食』と『経済』の相似性
Zeger Reyersによるインスタレーション『roating kitchen』 (photo © rob duyser)
先人の哲学者がキッチンを家庭内に於けるマイクロコズムであると解釈した事に対して、Zeger Reyersは、その思想を更に拡大解釈しキッチンを世界と見立てた。
現代に於ける経済・食料問題をゴミ溜製造機と化していくキッチンで表現している。
「キッチンは、人間の営みを凝縮した小宇宙である。」
私達の体内に取り込まれた食物は、消化によって栄養素となり、血中を通じて体内に拡散されます。
血液は、動脈・静脈と異なる方向性に流れる事で、人間のエネルギーとして富を産み出して行きますが、これを経済システムとしてメタファー的に捉えると、生産者、消費者という二つのベクトルへの流れる循環として捉える事が出来ます。
血液の循環と貨幣の循環は非常に相似性が高いと思いますが、同時に、貨幣というものが最終的な成果物ではなく、その先に生成される"豊かなモノ"を私達が、真剣に考えなければならない事も解るでしょう。
決して、貨幣=富と看做す事は難しいと思うのです。
これらの概念を非常に巧くまとめて提言したのが、フランスの医師・経済学者 フランソワ・ケネーでした。彼が掲げたフィジオクラシー(重農主義)や有名な経済表では、真なる富(増殖する富)が農業によって齎されると説いています。
工業の労働は富を増殖しない。
農業の労働は経費を補填し、農業労働に支払いをし、経営者に利得を得させ、しかもそのうえに土地の収入を生産する。
工業の加工品を購入するものは諸経費を支払い商人の利得を払うが、この加工品はそれ以上に何らの収入を生産することはない。
かくて、工業の加工品には富の増殖はない。
この加工品の価値はその労働者が消費する生活資料の価値が増すだけであるからである。
...
「富の創出」を言う場合には、その基本価格を超える売上価値の超過分が問題とされる。
「純生産」はまさに「大地の贈り物」から引き出される利潤にほかならない。
~フランソワ・ケネー 『穀物論』~
農業は母なる職業であり、自然から真に賞美され大切にされた唯一のものである。
というのは、そこでんされた数日の辛苦の報酬として、自然はまるまる何ヶ月もその仕事のために働いてくれる唯一のものだからである。
~ミラボー「人民の共」より~
共に中沢新一著の 『カイエソバージュ』より。
現代社会に於いて、この人類史上の革命とも謂われる農業が再度見直されています。
農業には、その生産システムや方法論、例えばトレーサビリティやフェアトレードなど新しい経済システムへのオルタナティブや標榜を高々と掲げる旗手となっていると思うのです。
地球法が燦々と輝いていた時代。
生きとし生けるもの霊魂への敬いであるアニミズム的な概念を有していた時代。
こうした時代の『食』の概念は現在とは異なり、自然や動物に敬意を示していた時代でした。
現代とこうした時代の断絶や喪失してしまったプロセスを探求する事で、私達が進むべき新しい経済システムの答えが『食』を取り巻く状況から姿を現すかもしれません。












Comments and Trackbacks